古いPCの延命は「当時から低性能でファンもついてないやつ」よりも「当時は高性能でファンが五月蝿いやつ」のほうが難しい
Windows7のサポート切れを来年に控え、古いPCを捨てるか延命するか、トリアージを考えはじめています。
Windows7が目新しかった当時はバリバリに高性能だった古いcorei7搭載のノートPCは、買って1年目から五月蝿いだけの嫌なやつに成り下がっており、今では冬でも熱暴走するので早々に捨てます(もちろんリサイクルされますが)。このPCは「高性能ノート」と呼ばれるようなものは金輪際買わないぞと思わせてくれるぐらいの経年劣化ぶりをみせてくれました。熱で筐体の色が変わってますし、設計したやつを呪いたい気分です。
BootCampでWindows7機として使い続けてきたiMacはもともとのOSXを起動させるようにして、それから何かに使えないか考えたいと思っています。使いみちがなくて破棄することになるかもしれませんし、なにか用途を思いつけるかもしれません。
celeron搭載の格安ノートPCはメモリを足すこともなく、Ubuntu機として延命させられそうです。必要なら、高速化とさらなる静粛化のために、SSDに載せ替えてもいいかと思います。SSDの価格下がってきていますから。
こうしてみていくと古いPCの延命は「当時から低性能なやつ」よりも「当時は高性能でいまではただ五月蝿いだけのやつ」のほうが難しいような気がします。
これだけだとちょっとさみしいので、なんか最後にいいこと言おうと思って考えてみましたが、何も思いつかないので、これでやめます。教訓を無理に探し出そうとしたり、敷衍してなにかにあてはめようとするの、あんまり意味ないですし。これはこれだけの話です。おしまい。